8月 29, 2012 - 未分類    No Comments

日光 中禅寺湖畔 レーキサイドホテル

このサイトは坂巻正太郎(筆者の曾祖父)が1894年に日光中禅寺湖畔で創業したLakeside Hotel (現:日光レイクサイドホテル)と創業者ファミリーの歴史を現存する写真と共に紹介するものです。

中禅寺湖と男体山 (2012)

立木観音から撮った中禅寺湖と男体山(1930年頃)

中禅寺湖畔は明治の初め頃から主にヨーロッパの国々の大使や外交官の避暑地として開拓されていました。1896年(明治29年)に英国の外交官であったアーネスト・サトウが別荘を建て、その後多くの大使館別荘が建築されました。

そのような中、1873年(明治6年)に金谷善一郎氏が西洋人専用宿泊施設として「金谷カテッジイン」を設立、1893年には日本最古の西洋式ホテル「金谷ホテル」を創業しました。

坂巻正太郎は1885年頃に渡米、帰国後に創業間もない金谷ホテルに通訳兼支配人として勤務、1894年に中禅寺湖畔に約1万坪の土地を確保してLakeside Hotel (日本語では通常レーキサイドホテルと呼んでいました)を創業しました。正太郎は同時に東京愛宕山に「東京ホテル」を創業、両ホテルの経営で忙しく東京と日光を行き来していたようです。

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創業間もない頃のLakeside Hotel

1919年(大正8年)に正太郎が56歳で死去した後、息子である正明(1895-1967)が引き継ぎ、昭和の恐慌と戦争の時代も主にヨーロッパ人を対象にビジネスを続けました。

1945年(昭和20年)の終戦と同時に米軍に接収されましたが、1952年(昭和27年)には解除され、戦後は正明と彼の息子英一(1923-1989)が経営にあたりました。

筆者の子供時代(昭和30年代)を思い出すと、ホテルには様々な仕事をする従業員が住み込んでいました。コック、ボーイ、メイドはもちろん大工、左官、庭師、床屋、看護婦、椅子専門職人、電気工事職人などがホテル内にあった従業員宿舎で生活し仕事をしていました。創業時からずっとホテルはひとつのコミュニティのようなものだったのだと思います。

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上の写真は1920年頃写されたものですが、コックさん、ボーイさんをはじめ様々な仕事に従事していたホテルの従業員が集合しています。

1894年の創業から72年間、Lakeside Hotel は一貫して坂巻ファミリーが所有しましたが、戦後の時代変化への対応に苦慮し、1966年に東武鉄道へ売却されました。

1965年(昭和40年)頃のLakeside Hotel

8月 29, 2012 - 未分類    No Comments

創業者 坂巻正太郎

1863年に現在の栃木県大田原市周辺で札差を営む坂巻善造、きす夫妻の長男として生まれました。札差とは御家人、旗本に支給される米の仲介業者で、裕福な家であったと言われています。1885年、22歳の時に渡米、サンフランシスコでホテル業を学びました。

 

坂巻正太郎(1863-1919)

上の写真はサンフランシスコの写真館New York Gallery *で1885年~87年頃撮影されたもので、正太郎の年齢は22~25歳と推測されます。正太郎がアメリカで撮った写真で残っているものはこの1枚だけです。

アメリカから帰国した正太郎は金谷ホテルの通訳兼支配人となり、創業者金谷善一郎を助けるとともに息子たちの英語教育にも尽力。善一郎の姉(申橋)せんの長女包子と結婚。1894年、輪王寺から中禅寺湖半に1万坪を超える土地を借りて「レーキサイドホテル」を開業しました。同時に、東京愛宕山に「東京ホテル」を創業し、56歳で他界するまで経営に携わりました。

現存する中で最も古い(明治25年、1892年頃)
ホテルの写真(創業前)

正太郎の渡米と同時期に異なる夢や目的を持ち、長い船旅を経てアメリカに渡った日本人の中には後に京都都ホテルの総支配人に就任、同ホテルの「象徴的な存在」となった浜口守介氏も含まれていました。正太郎と浜口氏はアメリカで知り合い、帰国後浜口氏は正太郎が創業した「レーキサイドホテル」に勤務したことが記録として残っています。

 

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アメリカから帰国後の正太郎と友人

 

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浜口家から提供いただいた写真
(創業時ホテル玄関で)(あぐらを
かいているのが浜口氏、その後が正太郎)

 

 

1877年(明治10年) に足尾銅山の経営に着手していた古河財閥は、1905年(明治38年)に古河鉱業会社を設立しました。下の写真は足尾にて正太郎と古河鉱業創業者を撮ったもので、正太郎(左から3番目)の隣の学生服の男性は若き日の志賀直哉です。

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足尾にて古河鉱業関係者と
歓談する正太郎

 

詳細は不明ですが、正太郎はレーキサイドホテルの創業から間もなく東京の愛宕山(現在の港区愛宕)で「東京ホテル」を経営していました。下の写真は1912年(大正1年)に撮影されたもので正太郎は写っていませんが、正太郎の両親(前列)および正明(後列)が写っています。

 

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1912年 東京ホテルにて従業員と

 

当時、正太郎は病に伏せていたらしく、まだ若い正明が経営を任されていたようです。この写真から7年後の1919年に正太郎は56歳で死去しますが、どの時点で「東京ホテル」を手放したのかは不明です。

下の写真は、1910年頃の坂巻ファミリーの集合写真です。

 

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後列左から、正明、八重、まき、包子、きす、
前列左から善造、正太郎

 

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*New York Gallery

正太郎の写真の裏には、写真館の名称、住所、オーナーの名前などが印刷されています。

Rootsweb の「サンフランシスコの写真館」の項目にNew York Gallery について以下のような記述があります。

Studio in San Francisco, 1867-87; operated at various times by B.F. Howland and J.H.Peters, Daniel Sewell and J.G.Hucks; located at 25 and 27 Third Street.

1867~87年に 25 Third Street で営業、オーナーは何回か変わったようですが、J.G.Hucks の名前もありますので間違いないと思われます。

 

10月 24, 2012 - 未分類    No Comments

正太郎の両親

父 - 坂巻善造 母 - きす

正太郎の父、善造は江戸時代後期1840年(天保11年)生まれ。出生地は定かではありませんが、成人してからは札差(武士を対象とする金融業)を生業としていました。妻きすとの間の子供は正太郎ひとりでした。1885年に正太郎が若くして渡米できた背景には、父親の金銭的および精神的な援助があったようです。善造は1913年(明治46年)73歳で死去、妻きすは1919年に息子正太郎に先立たれ、1922年に77歳で亡くなりました。

坂巻善造(1940-1913)

坂巻きす(1845-1922)

 

1月 7, 2013 - 未分類    No Comments

正太郎の妻 - 包子

 

旧姓は申橋包子。実家である申橋家は代々日光山本院の納戸役などを務めた由緒ある名家です。金谷ホテルの創始者金谷善一郎の姉金谷(申橋)せんの長女です。包子は若くして「輪王寺の宮」と呼ばれる北白川宮能久親王*の側室となり、24歳で宮との間に男子(後の二荒芳之侯爵*)をもうけましたが、1895年の親王の死去に伴い宮家を離れ、30歳で坂巻正太郎と再婚しました。

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坂巻包子(1866-1945)
50歳代の写真

輪王寺と二荒山神社という2大社寺が全所有権を持つ奥日光地区、中禅寺湖半に正太郎が一万坪を超える土地を確保してホテルを設立できたのは、輪王寺との強いパイプを持つ、包子の力が大きく作用したことが考えられます。

1895年、正太郎と包子の長男正明が誕生。夫婦は教育熱心で正明を小学校から東京の暁星学園に入学させました。

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正明の暁星小学校入学時

 

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正明、包子、正太郎とホテル従業員、
レーキサイドホテル玄関前で(1902年頃)

孫英一(筆者の父)が生まれると大変にかわいがり、暁星学園入学時には一緒に東京に移り住みました。

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英一(中学生)と銀座で

夫正太郎は1919年に56歳で死去しましたが、包子は当時としては長寿で1945年79歳でこの世を去りました。

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*北白川宮能久親王 (1847-1895)伏見宮邦家親王の第9王子。日光山輪王寺の門跡を継承したことで「輪王寺の宮」として知られる。

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北白川能久親王(ドイツ留学時代の写真)(包子が所持していたもの)

*二荒芳之侯爵 (1889-1909)北白川能久親王の第5王子。

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二荒芳之伯爵(10代の写真)
(包子が所持していたもの)

10月 31, 2012 - 未分類    No Comments

正太郎の息子(正明)と孫(英一) 

筆者の祖父にあたる坂巻正明は、レーキサイドホテル創業の翌年1895年に正太郎と包子の長男として生まれました。

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父正太郎に抱かれた正明(1895年)

 ホテル経営の後継者として幼少時から厳しく育てられたようです。小学校から親元を離れ、東京の暁星学園で学び、その後慶応大学に進学しました。

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正明の暁星小学校入学時に撮られたもの
後は母包子、左に父正太郎、他2人は使用人

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暁星中学の学友と
(向かって右端が正明)

正明は写真に撮られることが好きだったらしく、若い時のポートレートなどが数多く残っています。

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1912年正明17歳の時

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正明25歳の時
(自筆でサインしている)

1919年に父正太郎が死去すると、正明は弱冠24歳でレーキサイドホテルを継ぐことになりました。

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ホテルを継いだ頃の写真
(中央帽子、座っているのが正明)

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義理の妹まきと
(後方がレーキサイドホテル)

第一次世界大戦(1914-1918)の間は日本の参戦に伴い、正明は兵役も経験しましたが軍隊生活は短かったようです。1922年高杉きよと結婚。1923年に長男英一が生まれました。

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英一を囲んだ正明、きよ、包子
(右端は金谷眞一氏)

英一もホテルの跡取りとして、正明と同じく小学校より暁星学園に学び、慶応大学に進みました。

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1932年頃(英一9歳くらい)
外国人女性は英一の家庭教師

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1938年箱根宮ノ下の富士屋ホテル(英一15歳、正明43歳)(前列右から二人目は当時の富士屋ホテル社長山口正造)

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英一(慶応大学1年生)
ホテルの庭にて愛犬と

第二次世界大戦(1939-1945)中もホテルは営業を続け、主に同盟国であるドイツやイタリアからの訪日客の滞在場所として、また駐日外交官の社交場として利用されていました。

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1942年頃ドイツ人のゲストを日本舞踊で歓迎
(向かって右端が正明、左端が妻きよ)

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正明の名刺(昭和初期)

終戦後、レーキサイドホテルも進駐軍に接収されました。

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British Commonwealth Occupation Force
(1945年からの接収当時)

1945年から1952年までの接収時には、正明や英一も占領軍の通訳ガイドとして使われていました。自分のホテルが接収されたことが正明には相当にストレスであったらしく占領軍に反抗的な態度をとり、英一をあわてさせたという話が伝わっています。

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占領軍に東照宮を案内する正明

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占領軍を案内する英一(右から2番目)

1946年兵役が終わり日光に戻った長男英一がホテル経営に参加し、正明との親子経営が1966年東武鉄道へのホテル売却まで続きました。

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1958年頃ホテルバーにてゲストと
左端が正明、右端が英一

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正明の名刺(1960年代)

 

 

1月 9, 2013 - 未分類    No Comments

ホテル写真集(外観)

1895年(明治28年)創業当時

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現存する最も古いホテルの写真。創業前と思われる。ホテルのシンボルでもあった広い庭はまだ形成されていないが玄関へのドライブウェイは出来ている。

 

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中禅寺湖から華厳滝に流れる川向こうから撮ったホテル。船着場がある。向かって右端にLAKESIDE HOTELの看板が立っている。

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金谷ホテルが1902年に発行した日光ガイドブック(Notes for Tourists to Nikko)に掲載されていたLakeside Hotel の写真

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庭園が整備されて正太郎が好んだアヤメが植えられている。アヤメはホテルの象徴的な花になり、この後も1967年のホテル売却時までゲストの目を楽しませた。

 

 大正時代~昭和初期

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雪の中のホテルの写真はこの1枚のみ残っている。絵はがきとして売られていたものらしい。英語のホテル名が間違っている。

 

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1925年(大正14年)頃のホテル玄関前。馬返ー中禅寺間の自動車道が開通して乗合自動車が導入された。

 

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ホテル正面の全景。広い庭あることで有名だった。向かって右の建物は新館。

 

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玄関前には外国人ゲストを乗せた車が数台。庭にはいつもデッキチェアとパラソルが広げられていた。

 

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玄関前には池があり欄干の付いた小さな橋があった。

 

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玄関前から男体山を望む。奥の建物はメインダイニングルーム。

 

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中央が本館、その右を中新と呼んでいた。左はメインダイニングルーム。

 

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右の建物は新館。木々の向こうは中禅寺湖。

 

昭和40年代

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カラーで撮られた写真はこの1枚のみ。絵はがきになっている。

1月 9, 2013 - 未分類    No Comments

ホテル写真集(内部)

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メインダイニングルーム。「1915年(大正4年)10月13日中宮祠郵便局落成祝いとして是を写す」と裏面にある

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メインダイニングルーム。日本赤十字社関連のパーティか。

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バーの写真。暖炉があり、ゲストはビリヤードやカードゲームを楽しんだ。

 

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ホテルフロントから2階への階段。左側はライブラリー。

 

 

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ライブラリーに備えてあったブリタニカ百科事典(全36巻)(1889年発行の第9版及び1903年発行の第10版) 現存している

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Japan の項目

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日光についての記述もある

After Biwa may be noted the lakes of Chiuzenji, Suwa, and Hakone, all of which lie far above the level of the sea. That of Chiuzenji is situated at the foot of the mountain called Nantai-zan, in the Nikko range in the province of Shimotsuke. The scenery in its vicinity has given rise to the proverb that he who has not seen Nikko should not pronounce the word “beautiful.” (琵琶湖の他で有名な日本の湖には、中禅寺、諏訪、箱根があり、すべて標高の高い場所に位置している。中禅寺湖は下野地方、日光連山の中のひとつである男体山の麓にある。日光は風光明媚な土地であり、「日光を見ずして結構と言うな」ということわざもある。)

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本館2階客室からのホテル庭園と中禅寺湖を望む。

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ロビーの写真。

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ロビー。庭とドライブウェイが見渡せる。
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本館2階への階段。階段の手すりは全て橋の欄干のような純和風。客室のドアも含め本館のすべてのドアには絵師により異なる日本画が描かれていた。

 

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内側から見たホテル玄関。正太郎が好んだアヤメをエッチングしたガラスがゲストを迎えた。

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メインダイニングルーム(戦後)。ホテルの洋食器は 創業者正太郎が好きだったアヤメの柄で統一   されていた。

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実際にホテルで使用されていたアヤメ柄のディナーウェア。すべて手描きのため同じものはひとつもない。

 

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ティーカップとデミタス。

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Lakeside Hotel の名前を刻した銀製のシルバーウェアなど。現存している。